1945年-東京-銀座(1)(2)

銀座-(1)

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 明治時代の銀座という街を象徴する赤煉瓦。しかしこれは当然ですが江戸の時代から存在していた訳ではありません。

 明治5年2月、祝田町(当時)にあった兵部省から出火。この火が銀座、京橋、築地などを瞬く間に飲み込む大火となり、焼け落ちた銀座の町を煉瓦街へと変える契機となりました。

 銀座、日本橋辺りは江戸期の埋め立てと開削工事により運河が縦横に走る水運の町でした。現在のこの辺りからは想像もつかない事ですが、橋が無ければ何処にも行けない陸の孤島という景観です。

 昭和初期でも100を超える橋で結ばれていたこの地域はまさに水の都。それを陸地化する大きなキッカケは明治政府が推進した鉄道です。

 しかし陸の都とするべく強引に建てられた赤煉瓦の街は水と木の町の人々に中々受け入れられず、空き家だらけであったと記録されています。

 困った明治政府は木挽町以東の煉瓦家屋建設を中止しますが、空き家は増えて行くばかり。家賃を値下げしても空き家は埋まらず、煉瓦家屋を和風に変える事で少しづつ埋まります。これが日本風煉瓦街という銀座の景観の始まりでした。

銀座-(2)

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 江戸期、新両替町と呼ばれていた場所に慶長17年(1612年)貨幣鋳造所が移り、銀座と呼ばれるようになりました。銀座に対して当然金座も存在し、これは現在の日本銀行がある場所で、当時の地名は本両替町です。

 江戸時代は金座を中心に商人の中枢地域が広がり、時代劇などで知られる「越後屋」も金座の東隣、駿河町です。越後屋は初め呉服を商う商店でしたが、これが後の三井財閥に発展します。

 現在は豊洲に移転された東京都魚市場ですが、昭和から平成の長きに渡り親しまれた築地魚河岸も当初は水運を利用したこの地にありました。

 また、これも時代劇などで有名な吉原遊廓。こちらは明暦の大火で消失して移転する前、日本橋芳町に存在したものです。