日本書紀や古事記が語らない法隆寺の秘密について、資財帳が暗に示すヒントは食封や寄進物に関する記録です。
◾️資財帳に残る記録の謎
山背大兄皇子殺害事件が太子一族の霊を祀る動機であるとすれば、それは事件の関係者である巨勢徳太と孝徳帝(軽皇子)については納得できる理由です。

しかしその後の元正帝や聖武帝については太子一族を祀る寺に対する寄進としては正当な理由とは言えません。何故なら、法隆寺に永年食封が下されたのは天平十年(738年)であり、山背大兄皇子襲撃事件(643年)から100年以上経過しているからです。
この謎について、著者梅原猛さんは次のように考察しています。
◾️蘇我氏から藤原氏への政権移行
「食封を与えたのは、元明、聖武帝であるが、この両帝は藤原氏の血を引くか藤原氏に擁立された天皇である。このような天皇の意志の背後に、不比等(藤原不比等)の未亡人で実力者である橘三千代、聖武帝の母宮子、聖武帝の皇后光明子(こうみようし)など、残された女性たちの不安が隠れている事も確実であろう」
ここで述べられている内容は、山背大兄皇子殺害事件当時、時の権力者である藤原不比等の父、藤原鎌足(中臣鎌足)が山背大兄皇子殺害に関係していたのではないかという可能性です。

中臣鎌足が皇子殺害に関係していると仮定すれば、その後の藤原政権下で起きた不比等の死、元明、聖武帝の崩御、そして不比等の子である藤原四兄弟の相次ぐ死が、太子一族の怨霊による祟りとして、残された女性たちの不安となり、法隆寺に対する莫大な寄進という形で資財帳に記録されている事実と符合します。
またそれ以外の残された記録と蘇我氏から藤原政権への移行という時代的背景を検証する事により、梅原猛さんは法隆寺、そして日本書紀や古事記に隠された真実へと目を向けて行きます。