法隆寺の謎を考えるための第一の疑問、それは何故、日本書紀や古事記といった正史にその創建に関する記述が無いのか。この謎を解明するためには日本書紀や古事記とはどのようなものであるのか、それを考える事が重要となります。
その為には聖徳太子と諡(おくりな)をされた用明天皇の皇子がどのような時代を生き、亡くなり、その間、またはその後、どのような経過でこの国の歴史が刻まれているか、それを確認する必要があります。
◾️斑鳩宮

推古天皇の摂政として正式に太子が皇太子となったのは推古元年(593年)。推古天皇の即位は豊浦宮、現在の奈良県明日香村です。この時代、王家の宮殿はまだ即位と共に宮が移り、同じ皇位でもそれが移されることもあります。
また、争いにおける武力は王家や豪族が直接支配する氏族よって行われ、崇峻天皇殺害や後の大化の改新へ向かう契機となった乙巳の変(いっしのへん)にみられるように、蘇我馬子や中臣鎌足といった有力豪族の名前が記されているのもそのような事情によります。
昭和の発掘調査により斑鳩寺は現在の法隆寺と少し離れた場所に建てられ、火災による消失の後に再建された事が確認できています。では再建された法隆寺は誰が何のためにいつ再建したのか。
◾️山背大兄皇子惨殺
梅原猛さんは結論として、法隆寺は聖徳太子一族の鎮魂を目的として再建されたのではないかと推理しています。直接的には太子の子である山背大兄皇子(やましろのおおえのみこ)殺害とその一族が惨殺された事件を契機として、太子一族の霊を祀り、怨霊の祟りを鎮めるための法隆寺再建ではないかという考察です。

それは太子が亡くなった推古三十年(622年)から二十一年後の皇極二年(643年)。蘇我入鹿と軽皇子(かるのみこ)による斑鳩宮(いかるがのみや)襲撃事件です。
この事件により太子の子である山背大兄皇子を始めとする一族二十五名が法隆寺で殺害、或いは自害した記録が正史に刻まれています。この時、斑鳩宮も焼失しました。そしてその後、太子一族の御霊を祀るために法隆寺が再建されたのではないかという結論です。
では、太子一族の鎮魂を目的として再建された法隆寺について、日本書紀や古事記はなぜ沈黙を守るのか、それには必ず理由が存在しているはずです。